小林真子ピアノ教室
ピアノ教室イメージ
*小林真子 プロフィール

  • 3才よりピアノを始める。
  • 8才の時、長崎NBCラジオに出演し、ピアノ演奏。
  • 長崎市立横尾小学校、長崎大学教育学部附属中学校、長崎県立長崎北高等学校を経て、
    武蔵野音楽大学器楽学科ピアノ科卒業。
  • 池田松洋、市田儀一郎、河村康士の各氏に師事。
  • 大学時代、ヤマハピアノ並びにエレクトーン演奏グレード、指導グレード共に5級取得。
  • 卒業後は、ヤマハ音楽教室幼児科システム講師として、また音楽教室や自宅にてレッスンに
    あたる傍ら、演奏活動を続ける。
  • 1992年、結婚を機に、前橋へ。前橋市にて、教室開設。
  • 2007年、全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)入会。
  • 2012年、2013年、ピティナ指導者賞受賞。
  • 2013年より、ピティナ伊勢崎HIMAWARIステーション代表。

*主な演奏歴

'90年
東京にてジョイントコンサート出演。
'91年
ウイーン国立音楽アカデミーに於ける、ウィーン秋期音楽セミナーに参加。
ノエル・フローレス氏のレッスンを受講。
'92年
高崎にてジョイントコンサート出演。
東京にてリサイタル開催。
第12回ぐんま新人演奏会オーディション合格、同演奏会出演。
'94年
高崎演奏家協会定期演奏会、コンサートぐんま、
TEPCO若い芽コンサート等に出演。
'95年
草津国際音楽アカデミーに群馬県派遣員として参加。
夢スタジオ(前橋)にてリサイタル開催。
'96年
前橋にてジョイントコンサート出演。
コンサートぐんま出演。
'97年
高崎演奏家協会定期演奏会出演。
'98年
前橋市フレッシュコンサート出演。
'01年
陸上自衛隊第12音楽隊定期演奏会にて、同音楽隊と共演。
コンサートぐんま出演。
'02年
高崎演奏家協会定期演奏会出演。
'05年
高崎演奏家協会定期演奏会出演。
'07年
ウィーンにて、アヴォ・クユムジャン氏のセミナー(レッスン)受講。
'01年より毎年、ウィーン国立音楽アカデミー教授の、アヴォ・クユムジャン氏の 公開レッスンを受講。

その他、福祉施設や幼稚園、小学校、サロン等でのコンサートに出演の他、伴奏者としても、 リサイタル、コンサート、コンクール等での伴奏を務める。
群馬音楽協会、高崎演奏家協会会員。全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)正会員。 -->

*小林真子 ヒストリー

 「プライベート」「子供時代」「中学時代」高校時代」について書いてあります。  堅苦しいものではないので気軽に読むことが出来ると思います。
* プライベート

☆家族
同い年の夫と、1999年生まれの息子が一人。
夫の両親と同居。
犬1匹。名前はアポロ。(犬種はミニチュアシュナウザー)
☆趣味
バレエ(コンサートや発表会前など、仕事が忙しいときは、お休みしてます。)
スキー(冬が待ち遠しいわ♪)
ドライブ(ハンドル握ると人が変わる?!いえいえそんなことは・・・笑)
☆星座
乙女座
☆血液型
A型(なぜか・・・O型に見られることが多い)
☆好きな食べ物
魚より肉。茶碗蒸し。
 桃、ピオーネ、洋ナシ。
☆嫌いな食べ物
納豆、ゆで卵、目玉焼き、牛乳。
☆苦手な事
整理整頓・早起き


* 最近の出来事

 商工会議所発行の「商工まえばし」に載りました。
 その時のページを「PDFファイル」で載せてあります。
 興味のある方はご覧下さい。↓

     「商工まえばしPerformer」


* 子供時代

 3才の頃住んでいた社宅のすぐ前が、たまたまピアノを教えている先生の家でした。
その家には、一つ年上の女の子がいて、時々一緒に遊ぶ時に、ピアノを弾かせてくれているうち、この子は、耳が いい!と、言われ、始めるきっかけになったようです。
当初うちにはピアノもなく(4才ごろには買ってもらいました)、私の両親は、全くと言っていいほど、音楽の素養が なかったにもかかわらず、幼稚園の頃から、先生の弾く和音を、どんな不協和音でも言い当て、耳にした曲を、 ドレミに直して、いつも歌ったり弾いたりしていたそうです。
と、ここまでは、すごい神童のようですが・・・、練習は嫌い、だったようです。
聴いたことがある曲はまだしも、知らない曲の楽譜を読んで、さらには指使い等に注意しながら、となると、面倒く さいことこの上なく・・・。
それでも、小学校低学年までは、怒られたり、叩かれたり、泣きながらも、何とかほぼ毎日練習していたようです。
(それはそれは半端じゃなく母は怖かったし・・・)

 そのうち、高学年になり、だんだん知恵もついてきて・・・、さて練習は・・・というと?!
曲が難しくなってくると、母には、もう分からないのをいいことに、「これであってるの!!」「もう弾けてるの!!」と 言い張り(苦笑)、指使いが間違っていようが、ちょっと譜読みの間違いがあろうが、強引に弾き飛ばし、何度、「練 習しないならやめなさい!」 「絶対やめない!」のバトルがあったことか・・・。
あまりに練習をしないので、ついにブチ切れた母が、ある日、ピアノに鍵をかけてしまい、2ヶ月くらい、強制的にや めさせられたりした時期もありました。
いやはや、今思うと、貴重な小学校時代、なんともったいない時期を過ごしたかと、後悔しきりですが、けっしてピ アノが嫌いだったわけではなく、いつも、一番好きなのはピアノで、大きくなったらピアノの先生になるんだ!と、心 に決めていたのでした。
練習しないで、いきなり上手になりたい、なんて、虫が良すぎますが・・・。
おまけに、同級生や友人の中では、それでも、一番テキストは進んでいて、"練習しなくてもできるも~ん"とこれ また、恐ろしい勘違いもいいところ・・・。
(念のために書き添えておきますが、テキストが進んでいるから上手、とは限りません。)
あの頃、もっときちんと練習していれば、もしかしたら、もう少し違うピアノ人生になっていたかも・・・
とは思いますが(苦笑)。

また、たられば、の話になりますが、実は、低学年の頃、夏休み中に母の実家に帰省した際、母の友人のピアノ の先生に練習を見てもらったことがあり、その時「今の先生は、基礎的なことをきちんと教えてくれていないみた いだから、すぐに先生を変わったほうがいい」と指摘されたそうです。それで母は、変わろうかと、私に聞いたそう ですが、私は、優しい先生が好きで、変わりたくない、と答えたとか。
(先生の名誉のためにも、失礼ながら、上記の師事した先生の中に、その先生のお名前を書くのは控えさせてい ただきました。)

あの時、先生変わってればねぇ・・・と、今でも母と話をすることがありますが、自分が苦労した分、今、生徒さんた ちのレッスンにその経験を生かせるのだし、その頃、細かいことを気にせず好きに弾いてきたから、もしかしたら今 があるのかもしれません。


* 中学時代

 さて、そんな練習嫌いの私は、学校の勉強も大嫌い。
このまま中学に行ったら大変だと、業を煮やした母が考えたのは、何と!附属中学を受験して落ちたら、懲りて、 一生懸命勉強するようになるだろうという無謀な策でした。
で、塾にも行ったことがない私が、いきなり中学受験をすることに・・・。
附属なんか行きたくな~い、と抵抗しつつも、願書を勝手に出され、渋々受験したら、これが何と合格・・・(唖然)。
さすがの私も、そんなはずは・・・と、驚きましたが、かくして、母の思惑は大はずれ!
ますます勉強しなくなったことは言うまでもありません(苦笑)。
中学では、友人につられ、最初テニス部に入りましたが、ピアノのレッスンで部活を休むことを先輩に責められ、 怖いよぉ・・と1年で退部。2年になって新しくコーラス部が新設され、そこで伴奏ばかりしてました。

 そんな中、ピアノは休まずレッスンには通っていましたが、転機は中学2年の発表会。
その発表会では、自分の力量に見合わない曲を与えられ、それはそれは散々な出来でした。
あ~あ・・・と、落ち込んでいるのもつかの間。
先生から、母に、「だんだん高度な曲になってきて手に負えないから、違う先生に変わったほうがいい・・・」という 旨の話があったらしく、先生を変わることになりました。でも、進度的には、ソナタ程度で、指導しきれない・・って、 何なの?!と、子供心に不信感を抱いたのを覚えています。

 そこで、母の知人から紹介されたのが、武蔵野音大出身の池田松洋先生。
怖い、という評判を聞き、また、男の先生ということもあり、かなり緊張して行ったのですが、実際に伺ってみると、 とても穏やかでユニークな先生でした。
さらに、そこで判明したのは、案の定やはり基礎が全くなっていない、指は出来てないし、練習の仕方もなってな い、という事実でした。
そこで、初めてリズム練習(リズムを変えて練習すること)を知り、ハノンも、ツェルニーもバッハも、すべてもう一 度やり直し、ということになりました(涙)。

 でも、それからというもの、適切な練習をすると、出来なかったところも弾けるようになるんだ!ということが、やっ と分かるようになった私は、部分練習や、反復練習等が、全く苦じゃなくなり、むしろ人が変わったように、毎日一 定時間以上、練習に励むようになりました。

 その頃の進路の目標は、国立大学の教育学部の中学音楽課程。
共通一次試験(今で言うセンター試験)はもちろん、二次試験では、ピアノ実技と声楽、楽典等があるため、その 頃から、またもう一人の先生の元に、声楽とソルフェージュのレッスンにも、通い始めました。
その先生は、やはり武蔵野音大の声楽科出身の三輪宣彦先生。
奥様も、同じく声楽科出身で、ご夫婦揃っていい声をされていました。


* 高校時代

 高校は、音楽科に進むことも、ちょっとだけ考えましたが、国立の大学を受けるなら、勉強も大切だし、いろんな 意味で、幅広い知識を身につけた方がいいと、普通の進学校に進みました。
長崎は、総合選抜制と言って(今はどうか知りませんが)、長崎市内の進学校五校のレベルを、一定にするため、 高校のランク付けがありませんでした。
だいたいの学区制で、五校を受験し、入る高校は、自動的に振り分けられるシステムなので、高校受験は、とて も精神的に楽でした。なので、受験期も、ピアノと声楽のレッスンは休むことなく続けました。
高校ではコーラス部に所属。やはりずっと伴奏担当でした。

 高校二年になって間もなく、先生から、「三年生の先輩が、武蔵野音大の受験講習会に行くんだけど、一緒に行 ってみる?」とのお声がかかりました。(わぁ!!東京の音大?!カッコイイ~♪)
「はい!行ってみたいです!!」と、お返事して、私も受験講習会に参加することになりました。(本当に脳天気・・)
初めて見る音楽大学、そして、全国各地から集まった、いかにもバリバリ弾けそうな人達、そして、充実した設備。
でも、講義のほうは、準備不足が歴然で、ちんぷんかんぷん?!の内容もありましたが、私にとっては、初めて 見聞きすることばかりで、充実した講習会でした。
かくして、長崎に帰った私は、先生に「先生、私も武蔵野音大行きたいです!」と、爆弾発言!慌てたのは先生と、 両親です。
いやぁ、国立大学なら十分大丈夫だと思うけど、今から間に合うかなぁ~、(と先生)、 そんなお金は、とてもとても・・・(と両親)。
そんな両親を尻目に、音大受験への本格的な取り組みが始まったのでした。
まず、池田先生のレッスンの他に、武蔵野音大の教授の元へ、東京まで月に一回、飛行機に乗って通うようにな りました。他の生徒さん達は、テープレコーダー持参で、北海道や、沖縄からも、親子で来ている人がほとんどで した(同伴のお母様達は、皆熱心にメモも取りながら)が、私は一人で行っていました
(二人分の飛行機代は出せないと)。
そしてさらに高校三年の秋には、ついに、念願のグランドピアノも買ってもらいました。

 そしていよいよ、受験。
滑り止めにと、一応国立の教育学部も受けることにして、共通一次(センター試験)を受けた後、武蔵野の入試。
都内の音大生用のマンションを約1ヶ月借りて、そこで、自炊しながら、東京の先生の元へレッスンに通い、無事 合格することができました。
私は、親がそばにいるより、一人の方が集中できるタイプで、いろいろとプレッシャーを受けずに出来たのも良か ったのだと思います。
その後、国立の福岡教育大学の教育学部音楽科の二次試験も受けて、こちらも無事合格。
親からは、金銭的な意味で、出来れば国立に行って~と、泣きつかれましたが、絶対武蔵野に行く!と、念願叶って、 音大に入ることができたのでした。
あの時、金銭的には大変だったと思いますが、行かせてくれた両親には、今でも感謝しています。