3才の頃住んでいた社宅のすぐ前が、たまたまピアノを教えている先生の家でした。
その家には、一つ年上の女の子がいて、時々一緒に遊ぶ時に、ピアノを弾かせてくれているうち、この子は、耳が
いい!と、言われ、始めるきっかけになったようです。
当初うちにはピアノもなく(4才ごろには買ってもらいました)、私の両親は、全くと言っていいほど、音楽の素養が
なかったにもかかわらず、幼稚園の頃から、先生の弾く和音を、どんな不協和音でも言い当て、耳にした曲を、
ドレミに直して、いつも歌ったり弾いたりしていたそうです。
と、ここまでは、すごい神童のようですが・・・、練習は嫌い、だったようです。
聴いたことがある曲はまだしも、知らない曲の楽譜を読んで、さらには指使い等に注意しながら、となると、面倒く
さいことこの上なく・・・。
それでも、小学校低学年までは、怒られたり、叩かれたり、泣きながらも、何とかほぼ毎日練習していたようです。
(それはそれは半端じゃなく母は怖かったし・・・)
そのうち、高学年になり、だんだん知恵もついてきて・・・、さて練習は・・・というと?!
曲が難しくなってくると、母には、もう分からないのをいいことに、「これであってるの!!」「もう弾けてるの!!」と
言い張り(苦笑)、指使いが間違っていようが、ちょっと譜読みの間違いがあろうが、強引に弾き飛ばし、何度、「練
習しないならやめなさい!」 「絶対やめない!」のバトルがあったことか・・・。
あまりに練習をしないので、ついにブチ切れた母が、ある日、ピアノに鍵をかけてしまい、2ヶ月くらい、強制的にや
めさせられたりした時期もありました。
いやはや、今思うと、貴重な小学校時代、なんともったいない時期を過ごしたかと、後悔しきりですが、けっしてピ
アノが嫌いだったわけではなく、いつも、一番好きなのはピアノで、大きくなったらピアノの先生になるんだ!と、心
に決めていたのでした。
練習しないで、いきなり上手になりたい、なんて、虫が良すぎますが・・・。
おまけに、同級生や友人の中では、それでも、一番テキストは進んでいて、"練習しなくてもできるも~ん"とこれ
また、恐ろしい勘違いもいいところ・・・。
(念のために書き添えておきますが、テキストが進んでいるから上手、とは限りません。)
あの頃、もっときちんと練習していれば、もしかしたら、もう少し違うピアノ人生になっていたかも・・・
とは思いますが(苦笑)。
また、たられば、の話になりますが、実は、低学年の頃、夏休み中に母の実家に帰省した際、母の友人のピアノ
の先生に練習を見てもらったことがあり、その時「今の先生は、基礎的なことをきちんと教えてくれていないみた
いだから、すぐに先生を変わったほうがいい」と指摘されたそうです。それで母は、変わろうかと、私に聞いたそう
ですが、私は、優しい先生が好きで、変わりたくない、と答えたとか。
(先生の名誉のためにも、失礼ながら、上記の師事した先生の中に、その先生のお名前を書くのは控えさせてい
ただきました。)
あの時、先生変わってればねぇ・・・と、今でも母と話をすることがありますが、自分が苦労した分、今、生徒さんた
ちのレッスンにその経験を生かせるのだし、その頃、細かいことを気にせず好きに弾いてきたから、もしかしたら今
があるのかもしれません。
さて、そんな練習嫌いの私は、学校の勉強も大嫌い。
このまま中学に行ったら大変だと、業を煮やした母が考えたのは、何と!附属中学を受験して落ちたら、懲りて、
一生懸命勉強するようになるだろうという無謀な策でした。
で、塾にも行ったことがない私が、いきなり中学受験をすることに・・・。
附属なんか行きたくな~い、と抵抗しつつも、願書を勝手に出され、渋々受験したら、これが何と合格・・・(唖然)。
さすがの私も、そんなはずは・・・と、驚きましたが、かくして、母の思惑は大はずれ!
ますます勉強しなくなったことは言うまでもありません(苦笑)。
中学では、友人につられ、最初テニス部に入りましたが、ピアノのレッスンで部活を休むことを先輩に責められ、
怖いよぉ・・と1年で退部。2年になって新しくコーラス部が新設され、そこで伴奏ばかりしてました。
そんな中、ピアノは休まずレッスンには通っていましたが、転機は中学2年の発表会。
その発表会では、自分の力量に見合わない曲を与えられ、それはそれは散々な出来でした。
あ~あ・・・と、落ち込んでいるのもつかの間。
先生から、母に、「だんだん高度な曲になってきて手に負えないから、違う先生に変わったほうがいい・・・」という
旨の話があったらしく、先生を変わることになりました。でも、進度的には、ソナタ程度で、指導しきれない・・って、
何なの?!と、子供心に不信感を抱いたのを覚えています。
そこで、母の知人から紹介されたのが、武蔵野音大出身の池田松洋先生。
怖い、という評判を聞き、また、男の先生ということもあり、かなり緊張して行ったのですが、実際に伺ってみると、
とても穏やかでユニークな先生でした。
さらに、そこで判明したのは、案の定やはり基礎が全くなっていない、指は出来てないし、練習の仕方もなってな
い、という事実でした。
そこで、初めてリズム練習(リズムを変えて練習すること)を知り、ハノンも、ツェルニーもバッハも、すべてもう一
度やり直し、ということになりました(涙)。
でも、それからというもの、適切な練習をすると、出来なかったところも弾けるようになるんだ!ということが、やっ
と分かるようになった私は、部分練習や、反復練習等が、全く苦じゃなくなり、むしろ人が変わったように、毎日一
定時間以上、練習に励むようになりました。
その頃の進路の目標は、国立大学の教育学部の中学音楽課程。
共通一次試験(今で言うセンター試験)はもちろん、二次試験では、ピアノ実技と声楽、楽典等があるため、その
頃から、またもう一人の先生の元に、声楽とソルフェージュのレッスンにも、通い始めました。
その先生は、やはり武蔵野音大の声楽科出身の三輪宣彦先生。
奥様も、同じく声楽科出身で、ご夫婦揃っていい声をされていました。
高校は、音楽科に進むことも、ちょっとだけ考えましたが、国立の大学を受けるなら、勉強も大切だし、いろんな
意味で、幅広い知識を身につけた方がいいと、普通の進学校に進みました。
長崎は、総合選抜制と言って(今はどうか知りませんが)、長崎市内の進学校五校のレベルを、一定にするため、
高校のランク付けがありませんでした。
だいたいの学区制で、五校を受験し、入る高校は、自動的に振り分けられるシステムなので、高校受験は、とて
も精神的に楽でした。なので、受験期も、ピアノと声楽のレッスンは休むことなく続けました。
高校ではコーラス部に所属。やはりずっと伴奏担当でした。
高校二年になって間もなく、先生から、「三年生の先輩が、武蔵野音大の受験講習会に行くんだけど、一緒に行
ってみる?」とのお声がかかりました。(わぁ!!東京の音大?!カッコイイ~♪)
「はい!行ってみたいです!!」と、お返事して、私も受験講習会に参加することになりました。(本当に脳天気・・)
初めて見る音楽大学、そして、全国各地から集まった、いかにもバリバリ弾けそうな人達、そして、充実した設備。
でも、講義のほうは、準備不足が歴然で、ちんぷんかんぷん?!の内容もありましたが、私にとっては、初めて
見聞きすることばかりで、充実した講習会でした。
かくして、長崎に帰った私は、先生に「先生、私も武蔵野音大行きたいです!」と、爆弾発言!慌てたのは先生と、
両親です。
いやぁ、国立大学なら十分大丈夫だと思うけど、今から間に合うかなぁ~、(と先生)、
そんなお金は、とてもとても・・・(と両親)。
そんな両親を尻目に、音大受験への本格的な取り組みが始まったのでした。
まず、池田先生のレッスンの他に、武蔵野音大の教授の元へ、東京まで月に一回、飛行機に乗って通うようにな
りました。他の生徒さん達は、テープレコーダー持参で、北海道や、沖縄からも、親子で来ている人がほとんどで
した(同伴のお母様達は、皆熱心にメモも取りながら)が、私は一人で行っていました
(二人分の飛行機代は出せないと)。
そしてさらに高校三年の秋には、ついに、念願のグランドピアノも買ってもらいました。
そしていよいよ、受験。
滑り止めにと、一応国立の教育学部も受けることにして、共通一次(センター試験)を受けた後、武蔵野の入試。
都内の音大生用のマンションを約1ヶ月借りて、そこで、自炊しながら、東京の先生の元へレッスンに通い、無事
合格することができました。
私は、親がそばにいるより、一人の方が集中できるタイプで、いろいろとプレッシャーを受けずに出来たのも良か
ったのだと思います。
その後、国立の福岡教育大学の教育学部音楽科の二次試験も受けて、こちらも無事合格。
親からは、金銭的な意味で、出来れば国立に行って~と、泣きつかれましたが、絶対武蔵野に行く!と、念願叶って、
音大に入ることができたのでした。
あの時、金銭的には大変だったと思いますが、行かせてくれた両親には、今でも感謝しています。